2017年5月18日木曜日

Maria Callas sings "Mi Chaimano Mimi"




こんにちわ。
日々、
Giacomo PucciniのOpera"La bohème"から、
Maria Callasが歌う、'Mi Chaimano Mimi’ が心の奥で響きまくって、
最高の気分を味わいつづけて、はや2ws。
そんな仕合せをわたしはいただいております。仕合わせです。


先日、大型連休前、
ご縁があって、
脚本家の井上さんと演出家の小松さんにお誘いをいただいて、
海市工房さんの宴/演に参加させていただきました。
昨夏に続いて、今回も、雨音を鳴らす担当でした。
まぁ、数日とある45分ぐらいをくりかえし、くりかえし、
Mi Chaimano Mimiをわたしはかけまくっていたわけです。


とにかく、とにかく、
この企画に参加するたびに、演じることって凄まじいなぁ、とわたしは感じているばかりです。

そして、なによりも、
どんな演者の方々も、
みなさんのひとりひとりの本能が爆発する瞬間に立ち会えることが、
わたしには堪りません。

癖になります、この体験。

この体験を作り出しているのは、
いつもたくさんの示唆に富むコメントと演出のチカラを演者のみなさんに届ける怖い怖い・小松さんの仕業。

そして、さらにもうお一方の仕業です。

「あぁ、こうやって演者のみなさんを(いい意味で)操作する背景を作ってはるんですねぇ」、とわたしは感じているのですが、

実は、演出家をなだめるのではなく、

脚本のチカラを演者のみなさんに優しく伝えることに焦点を絞るために、
演出家と演者とスタッフと絶妙な距離感を保つ・心持ちが素敵な井上さんの仕業。

本当に、毎回ひとつひとつ、わたし、勉強させていただいています。

次の仕事への心の後ろ盾になる時間でした。
もう、おふたりには、本当に感謝しかありません。
ありがとうございます。



実は、
この体験で得たことで大切なコトがあります。
それは、音楽家のマネージャーにとって大切なことを感じ始めたある時期の、ある感覚に似ています。

+厳しい訓練の賜物って本当にあるから凄まじい、
+一方で、誰もが認めていても・そのたゆまぬ努力は報われないって本当にあるから凄まじい、
+でも、だから「もうやるしかない」ってう環境/状況も本当にあるから凄まじい、

(ちょっと狂ったように敢て言いますが、)
これはこれは凄まじいことでありましょう哉!、っていう感覚は、
人生に1度か2度くらいしかない感覚だと思います。

わたしが思うに、
きっと、私自身が未熟に戻る、そうでなければ、
空っぽにしないとやって来ない、もっといえば、
世の常識や普通の感覚から、無になら(れ)ないと、
感じられない感覚です。

頭で考えていてもできないコトが技術習得にはあるという矛盾というか、
頭で考えていてもうまく表現できないからしょうがない、というか、
とにかく、凄まじいことって、言葉でうまく捕まえられないから、、とも、とわたしは考えています。

なんかよくわかんないのですが、、
広告の現場や展示会などの現場では、
たぶん絶対に手に入れられない、
あゝ一生恨んでやる!みたいな解決できない真の苦しみと興奮が、
舞台表現にはあるような気がします。

もちろんあの現場とこの現場を比べることはいけないのですが、
対比することでわたしにとっての真実が生まれるから、人生は不思議。
だから、わたしは生きていることが楽しくなるんです、そんな気がしています。

この舞台から得た、この「ある感覚」のせいで、
毎日が学ぶべきコトがいっぱいありすぎて、
今も尚、頭と身体がぱんぱんです。

でも、おもしろくないことばかりだった毎日が、
おもしろくできて、最高です。

みなさまが、
まいにち、天と地をたくさん走って、たくさん、たくさん、
「あらま、仕合わせでした」、という
人と場に巡り会えますように。

多謝。



追伸
Mi Chiamano Mimiを聞いているとたくさんのことを思い出したり新しく感じたりしています。

先日、知り合いの音楽家が若くして亡くなりました。
私の友人だけでなく、
心を痛めている方がたくさんいらっしゃると思います。
わたしもその一人です。

突然の悲報に接し、悲しみに堪えません。
ここにそれを記し、心からの哀悼の意を捧げます。

合掌。


2017年5月15日月曜日

#最近気になること (#禁煙してからのこと)


#ふたつの境界線が交叉る #ジャポニカ学習帳 #新社会人 #さくら #桜咲いてた #春風 #backtotokyo

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こんにちわ。
「走る必然性」って、なんだろう?
、、 最近、誰も見ていないだろう(しかも、継続的 < 断続的)ブログを書き続けて、
一体、この日常にどんな意味があるんだろう、かと深く考え込んでいるふたむらです。(うそ)

いままでは、誰にも読まれないような日記を誰かに読まれる可能性を信じて書くということに快感を感じるただのドMな自分をわかっていなかったのかもしれません。(うそらしい本当)

大型連休はずっと本を読んだり、走ったり、1日だけの横浜へのショート・ショートな旅をしました。(本当です)



実は、昨年の夏に離婚してから大きく自分の環境を私自身で変えたことが、ひとつあります。
それは、禁煙を始めたことです。
夏から秋に大いに喫煙をし、その後、昨年末の冬に、
きっぱり禁煙しました。

禁煙すると、わたしの口臭もましになる、わたしの服も臭くない、わたしのお財布の中身もなくならない。
わたしの嫌いなことが消え去って、しかも、
「幸せゾーンを広くとる」ことができるようになった気もします。
[*御手洗瑞子「ブータン、これでいいのだ」(新潮社, 2012), Chap.11, p212]

ときどき、なんでたばこやめたんですか?って、問い合わせされます、実は、
そのきっかけは「走る必然性」です。

もしかして、走ることで幸せが広くなったことってありませんか?
小学生になって、初めてクラスのみんなと走って、わぁーって興奮したり、
中学生になって、体育の時間。
なんで走らなあかんねん、このクソ寒いのに、って仲のいい友人とだらだらしゃべりながら、
グランド走り続けた貴重な時間があったり、
高校生になって、やばい、俺、かなり走れるかも、
しかも速く、長く、あぁああ、最高に気持ちいいぃ、ランニング・ハイみたいなことを経験したり、
わたしの記憶をめくるめくると、走ることは幸せゾーンを広くとる行動の過去のいいことだったんだと、

いま、わたしは感じています。

実際的に、わたしにとって幸運だったのは、
続・禁煙中の今年に入って、
海外出張があって長時間のフライトがかさなったり、
さらにその前後期間に、仕事が詰まっていてリラックスする暇がなくなったり、
などなどと、比較的、タバコを吸えない状況が続いたのも幸運でした。

もしかしたら、なによりも、運がいい、ラッキーであった、というのが、コトが起きる(禁煙を完璧にする)ときの必要十分条件であることは真実なのかもしれません。



ふと、さて、
禁煙をさせた「走る必然性」って、なんだろう?、って、、
自分に問い合わせしたくなります。
不可思議なことに、
あんなに「あぁ、煙草欲しい」という感情が、いまは全くないことが不可思議といえば不可思議だし、
一方で、そのいつも望んでいたことがきっぱりなくなるというか、そのきっぱり感を疑っていたけれど、それは本当にきっぱりできたこと、だった、、、??

この真実は如何に??という今の状況は、尚、不可思議です。

結構、本気でこういうことを望んでいました、(そんな嘘みたいな)本気をつい自らの心に疑っても信じてしまう、わたし。
わりと、そういうもんかなぁ=すごい適当に生きているわたし、

何かをやめたら(なくなったら)、 意外なことに、不可思議にも、それはそれでたいしたことではないのかもしれません。

それにしても、 禁煙したらとなぜか「わたしは具体的に走りたくなった」。
「走る必然性」って、なんだろう?

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